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栗木台の成り立ち

栗木台は神奈川県川崎市の麻生区にあります。もともとは栗木くりぎという大字の一画でした。


東京都多摩市を中心に計画されたニュータウンの居住者の輸送手段として、小田急多摩線が計画

され、沿線となる五力田・片平・栗木・黒川では、1970年前後から地権者さんと、川崎市・小田急電鉄等が中心になって、土地区画整理組合を立ち上げ、土地区画整理事業が行われました。

特に『整ったまちづくり』を願った旧地権者と行政・小田急電鉄の思いがひとつになり開発が推められました。これは他所で複数の業者が無規則に入り込み、そのままに放置され『バラバラ・統一感のない状態』に開発されてしまった先例に対する懸念と教訓を活かしたことからです。

栗平駅は、旧栗木と片平の村境界に位置することから、それぞれの一文字をとって名付けられたものです。平尾の平では無いようです。


(出典:小田急電鉄社員の記述文書等による。)

栗平駅・黒川駅間の線路の両側は「栗木第一土地区画整理組合」として開発され、県道「上麻生・蓮光寺線」の北側を新町名の栗木台として命名しました。「くりぎだい」と読みます。


写真:1974年当時の栗木第一土地区画整理組合の上空写真
(出典元 国土交通省 国土計画局 インターネットサービス)

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街の歴史

【栗木周辺の歴史】

・大化の改新 武蔵野国都筑郡

・足利時代 武蔵野国麻生郷(ごう)の記述 1300年代の資料

・明治新政府の廃藩置県 神奈川県都筑郡栗木村

・明治5年の壬申戸籍では37戸220人

・明治21年(1888年)市制・村町制の法律施行により 神奈川県都筑郡

 ①黒川 ②栗木 ③片平 ④五力田 ⑤古沢 ⑥万福寺 ⑦上麻生 ⑧下麻生 ⑨王禅寺 ⑩早野

 10村がまとまり「柿生村」を形成。以降、柿生村大字栗木(字壱号から四号)

・明治22年(1889年)岡上村が加わり「柿生一カ村組合」

 現在川崎市の中で岡上が飛地で存在することは、柿生地域との親交の関係から、

 現在の横浜側につかず、柿生についたというのが元々の経緯です。

 当時の栗木は41戸240人で産業は炭や畑作が中心であった。

【柿生村と川崎市の合併】

・大正13年(1924年)川崎町・大師町・御幸町が合併し「川崎市」が誕生。

・昭和2年(1927年)4月 小田急線小田原線開通(当時の社名は小田原急行鉄道)

 駅の配置を巡り、最初は現在の柿生と鶴川の間に駅設置の考え(現・イト-ピア入口付近・

 柿生村と鶴川村との境界)たが、結果として旧柿生村各地区で費用分担。駅用地も提供する

 ことで、現在位置に柿生駅を設置に至った。

・昭和14年(1939年)4月「柿生一カ村組合村」が川崎市に合併し消滅。

 最後の柿生村飯塚村長(元栗木町内会長 飯塚馨氏の父上)

 また都筑郡各村は、横浜市と川崎市とにそれぞれ分かれて合併し消滅。

・昭和47年(1972年)川崎市政令市へ移行。以降川崎市多摩区栗木
・昭和58年(1983年)麻生区発足

【多摩ニュータウン開発の為の小田急多摩線の設置と地域の歴史】

 1960年代初頭から、首都圏の深刻な住宅難の解消に、東京郊外の大規模ベッドタウンと

して開発計画が進む多摩ニュータウンの足として、私鉄各社は鉄道構想を検討していた。

 当時の多摩ニュータウンへの交通手段は、鉄道開通の遅れからバスで聖跡桜ヶ丘や鶴川に出る

ルートしか無く、大規模な住宅開発の足かせとなっており鉄道の設置が急務でした。

 当初計画された私鉄各社の鉄道ルート案は、

 ①   西武
  中央線の武蔵境から出ている西武多摩川線を是政から延伸する案

 ②   京王

  動物園線の延伸から、京王多摩川から稲城を経る新線を建設する案に変更

 ③   小田急

  喜多見付近から分岐し、稲城を経る新線を建設する案
 審議・検討の結果、西武は接続の中央線の輸送量の限界を考慮し計画を中止。京王・小田急の2社となりました。ただし小田急の喜多見からの乗り入れは、京王と稲城市内を重複することから見直され、百合ヶ丘・柿生駅間で県道(津久井道)に沿って大きなカーブを描き走っていた小田急小田原線を、百合ヶ丘から柿生に真っ直ぐに山を切り開いたところに新駅(新百合ヶ丘駅)を作り、そこから分岐させる案が採用されました。

 

 昭和42年10月より新百合ヶ丘から分岐の現ルート用地買収に関わる地権者に説明開始した。(当時対象者200人) =小田急稲城ルートが実現していたら当地はなかった=

同時に住宅開発を目的に土地区画整理方式を取ることを地権者に提案する。

 昭和45年小田急多摩線の工事開始同時に『東急多摩田園都市開発』の手法を範した

多摩線沿線開発の一つとして地権者と小田急電鉄に川崎市が絡み、それぞれに土地区画整理組合を設立し地域開発が進んでいった。当エリアは「栗木第一土地区画整理組合」に属した。

 設置の駅名(当初案)五力田、栗平、黒川.... 栗平と言う地名は元々無かったが、片平と栗木の境に設置したことから一文字取った「合成地名」にて駅名となった。

 多摩線が永山まで開通した1974年6月当時から暫くは、輸送量も2両編成で間に合う状態であり、本数も15分に1本。上り新宿直行各駅停車も6両編成で朝2本のみ走っていました。


 当時の乗務員の話では、夜の遅くの上り電車は、運転士と車掌しか乗っていない回送電車のようなことが多々あったとのことです。

 多摩市から新宿へのルートも、小田急より京王が『圧倒的優勢』で小田急は都心方面への増発が本線の逼迫状態で出来ない状況でしたが、高架複々線工事の進捗によって、直通急行が走る様になって大変便利になりました。

【栗木台自治会】

  栗木台自治会の領域は、栗木第一土地区画整理事業北側の小田急電鉄の分譲地エリアです。

1982年頃から戸建の建設・分譲販売がされました。第一期分譲はまみ沢公園のすぐ下の17棟で、昭和58年夏頃から入居が開始されました。

 当時それ以外の場所は、区画されたのみの空き地だらけで、夜遅くの帰宅は大人でも大変さびしい思いをしながら帰宅しました。

 自治会の領域は、会則では栗木台1~5丁目ならびに栗平1・2丁目となっておりますが、栗木台1~3丁目の大半は、旧来からの『栗木町内会』に組織されており、我が自治会の構成は470世帯程です。これは、小田急電鉄が分譲した主として栗木台4・5丁目のエリアを中心とする自治会が設立され、会則に『会員は小田急電鉄が分譲する、一戸建ての居住者に限る』 として運営してきた経緯からです。

 栗木台の街の形成と栗木台自治会の領域を大きく左右したのは、小田急線の高架複々線工事との関係です。

 小田急電鉄は小田原線の高架複々線化工事(代々木上原から和泉多摩川間)を推めるうえで、複々線化用地供出者に対して納得できる『代替地』を用意する必要がありました。栗木台エリアはその代替地のひとつでした。60~70坪の大型区画の敷地と緑地を配しゆとりある街づくり、アンテナ無き街(谷合の電波障害地区「小田急ケーブルTV」(現在のJcom)への加入等々。分譲当時の小田急電鉄の宣伝コピーは「南向きひな段の高級分譲邸宅街 栗木台」

  昭和57年5月 栗木第一土地区画整理事業の完成(上記のとんび池の中の碑あり)、

その後住宅建設開始・分譲開始(まみ沢公園の下から)となる。

 昭和60年4月「栗木台自治会」発足


 当初小田急の描いた街は、栗木第一土地区画整理組合のエリアすべてが当会の領域とされていたが、現在の栗木台3丁目小田急「庭園の丘」分譲地までが『栗木第一地区』。

 会則を見ても、領域の分け方としても、恐らく住民自発でなく小田急主導で用意された規約と、結果的に領域が当初の設定より狭くなったということも小田急電鉄の分譲の結果と思われます。『小田急電鉄の分譲した戸建の購入者に限る、賃貸(共同)住宅の居住者は対象としない』という会則のくだりからもそう推測されます。

 その後、小田急小田原線の高架複々線化の工事(代々木上原・和泉多摩川間)がある程度落ち着き、また下北沢駅付近が上下構造の地下線で建設されることが決定されたことから、代替地の提供が一段落し、保有していた栗木台の土地(代替地)の処分が、小田急不動産への移管の元、平成14年頃から開始され、小田急電鉄住宅分譲事業の撤退となりました。

 更に小田急不動産が売却した土地を、他の事業者が戸建住宅を販売する動きが生じ、小田急分譲だけでなくなり、当会は会則の見直しを行い、会員資格を緩和して現在の栗木台自治会となりました。

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